「自分の旅を企画し、旅する」 個人リサーチ
島 崇
● 8/8 中間発表 #1
秋田をテーマに作品を作ってきて、「距離の取れなさ」を考えている。相馬千秋さんの「地域の代弁者になってはならない」という言葉を重く受け止めている。どう自分の作品過程に反映させるか、自分の欲望や方法論をどのように併走させていけるかを、作品化に向けて考えたい。その上で、演劇的にするのか、小説や戯曲などテキストにするかといったアウトプットはひとまず置いておきたい。
キーワードは、モニラ・アルカディリさんのレクチャーで出てきた「生きている人を霊として見ることができるか」。自分が死者であるかもしれないというのが、思考していく上での鍵になるかもしれない。
もう一つは、「アイデンティティーはフィクションなのではないか」。
秋田県民であること、日本人であることも、フィクショナルなのではないか。演劇的に役を演じるといったことを考える中で一つのきっかけになる。
「なまはげ」の危険性についてもすごく感じるものがあった。秋田における祭りの多様さも、ある意味父権制を誇示するものかもしれない。
なまはげの顔立ちが(地域によって)あれだけ違うのは、どんなことの対照なのか。恐れなのか、憧れなのか。例えば自分の親父に似ているかとか…そんなことが面白い。ビオスとジオスのこと、縦方向の感じや過去を遡ることも同時に考えないといけない。
逃げること、看取(みと)ること、どうやって終わらせるか、そこに踏みとどまれない、見送る側になれないということを個人として感じた。
五城目町の方と話していて、ある集落が必ず滅びてしまうというとき、見取り方的なものをどう考えるのか、そこから文化的なものをどう残すか。一旦ゼロにして、そこからどういうふうに始めるか(例えば五城目的な街をもっと秋田に点在させるとか)に可能性があるといった話も出た。
秋田を見送る、演劇的に秋田の葬式をするということも考えたが、その決断のできないところが、秋田に踏みとどまってしまう自分の秋田性なのかもしれない。そういうことに向き合い、考えていきたい。
個別リサーチでは、もしかしたらどこにも行かない方がいいのかもしれないとも思っている。当初は五城目町をちゃんと巡りたいと思っていた。また、ある限界集落が新たに村的になっているという話を聞き、行ってみようと思ったが、どう自分が振る舞うべきなのかを考えている。
● 8/15 中間発表 #2
テキストにしなければ、なかなか考えられないところがあり、ひとまず旅の報告というか、日記のような形式で、旅の中間報告をまとめた。
自身の「『私』の病める舞姫プロジェクト」でも、日記のように素直にテキストを書き、それを元に戯曲化した。土台として必要なものなので、まずはテキストを書くことから始めたい。