「自分の旅を企画し、旅する」 個別リサーチ
鄭 伽倻
● 8/8 中間発表 #1
自分の気質や感情に現れるネガティブな部分と秋田県民特有の負の要素を重ねると同時に、見えていなかったことを前向きにとらえて楽しみたいという気持ちになっている。
「旅する地域考」に参加し、交流で視界が開けたところもある。
10年ほど制作にブランクがあるため焦りがあったが、写真や映像に固執せず、インスタレーションやキュレーションにもとても興味が沸いてきている。人と人や物をつなぐ役割もできるのかなと思い始めた。
これから向かう個人の旅で、韓国へ行きたいという気持ちがまだある。国際免許を取り、下関経由で行ってみようかと考えている。
「移動が旅だ」という野口竜平君の言葉をヒントに、道すがらも楽しめるのではないかと思っている。
● 8/15 中間発表 #2
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私が「旅する地域考」に参加した理由は、在日韓国人であることから、生まれ育った日本にも韓国にもある種の疎外感を感じており、旅をすることで内面の旅を回避してきたことにもある。
前半の集団の旅で受けたレクチャーや受講生との交流で、発想や着眼点に感心しながらも、周囲が深く潜っているのに比べ、自分がルーツに固執して浅瀬を漂っているような焦りと不安を抱いていた。それでも20年ぶりに訪れる韓国には、期待を持っていた。
祖父母のルーツを周りたい、また自分と同じ名前の山に登ってみたいと考えていた。
8月10日、出発の準備を進めながらも、韓国へ行く必要性、距離と時期を問うて、一度断念する。旅の途中まで同行する予定だった中須賀愛美さんと、海と川が混じり合って夜が明けるところに寝そべって話をした。広島県へ向かう彼女を秋田駅まで見送ると、いてもたってもいられなくなり、秋田空港へ向かった。
飛行機から外を見下ろすと、明け方に歩いた浜が見えた。小さい飛行機だったので、窓のすぐ外にプロペラが回っている。祖父が渡って来た時代、中須賀さんが帰る広島、8月の終戦記念の時期が重なる。
韓国へ向かう船上で、パスポートの色でその人が何人なのかを測ろうとしたり、顔や見た目からその人と言葉が通じるのかを判断しようとしたりする自分がいる。
母が時々使う「ウリ=我ら」という言葉がある。その夜に行われたカラオケ大会の歌詞に、くり返しその単語が出てくる。在日の我々が指すその言葉が不明瞭で、いつも嫌悪感を抱いていたのだが、そのときは不思議と救われるような気持ちだった。
8月11日、釜山に船が到着する前後に体調を崩す。このことで自分が「20年ぶりの韓国」を、特別な旅にしようとしていたこと、秋田でのつながりを韓国で見つけようとしていたことに気が付く。短い期間で焦りがあったとはいえ、だいぶ気持ちが混乱していた。
韓国に着いて、妙な懐かしさがざわっと迫ってくる。自分の中で、不安や所在のなさをも支えにしている違和感を感じ取った。
街では、「韓国語が話せない」という意味で「コリアン・ジャパニーズ(韓国系日本人)」を多用した。日本では「在日韓国人」だと言っているのに、韓国では「日本人」だと思われた方が都合の良いことをおかしく思う。
8月12日、カヤ山に向かい、その名前が「ブッダガヤ」から来ていることを知る。以前歩いたお遍路を思い出す。海印寺で見慣れた動きをしている人がいる。韓国特有のお参りの仕方で、チェサ(法事)の度にするのだが、他人がしているのを初めて見た。身体が空気に溶けていくような心地だった。
8月13日、だんだん自分と韓国の記憶が暗いものに支配されていることに気が付き始める。モニラ・アルカディリさんが話していた「ネガティブだからといってそれを暗く表現する必要はない」という言葉を思い出した。
博多港に着いてからは、今までやったことのない事をしよう思い、初めてのヒッチハイクに挑戦した。1台目のドライバーは「妹が秋田の大学を出た」と言い、そこはかとない縁を感じた。ほかの人たちも、安全な場所で降ろしてくれたり、次のクルマを拾うまで見守ってくれたりしながら、計4台で大阪の伊丹空港まで行き、翌朝の飛行機で秋田に戻ってきた。
カヤ山を眺めながら海印寺を歩いているとき、荷物がとても重かったのを覚えている。数年前に周ったお遍路の初期の感覚によく似ていた。荷物の重さはカルマの重さ。背負っているのは、今必要ないものなのに、捨てられないものなのだと思った。
中須賀さんと歩いた夜と朝の境目、川と海の間、水や血が混ざり合うところ。そして、私の留守中に自宅に滞在していたほかの受講者との並行した時間と距離。この辺りにつながっていくものがあるのではないかと考えている。