旅する地域考archive

秋田で秋田と想ったこと

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プレゼンテーション

中須賀 愛美

「原爆ドームを見ながら産業奨励館を描く」

 

<スライド発表>

 

 

この春から秋田県で暮らすようになって、まだ旅人のような感覚で秋田を見ている。

瀬尾夏美さんと小森はるかさんの、東日本大震災をテーマにしたレクチャーを受けて、思い出さずにいられなかったのが、出身地である広島だった。東日本大震災の被災地で更地になった街、そこで生き抜こうとする人々、そして出来事をどのように継承するかは、原爆が落とされたあとのことと強く結びつけて考えられると感じた。

 

中でも特に「何を継承するのか?」は大きな問題だ。

レクチャーの中には「震災で受けた苦しみを忘れたい」という声に対し「一人ひとりの苦しみは忘れてもいい。でも、震災で得た教訓については忘れてはいけない」という言葉があった。その言葉に私自身は大きなショックを受けた。ヒロシマでは、被爆後に街が再生していく過程において、誰もが原爆のことを忘れたいと思ったはずだろう。だが、被爆した人々の苦しみに対して、「忘れてもいい」と言った人は果たしていたのだろうか。広島において、個人が受けた傷は、何度も何度もえぐられ続けているものだと感じる。

 

広島には小学生の時から平和教育がある。ここで重視されるのは、語り部と呼ばれる被爆者の体験談だ。

彼らは、辛い記憶を繰り返し語り続けている。その原動力となっているのは、戦争を二度と起こしてはならないという義務感だ。そして後世の私を含めた広島市民も被爆者の苦しみを自分たちのものとして引き受けてきた。語り部の傷は、私自身の傷でもある。

そのようにして広島では、被爆者一人ひとりの苦しみは忘れられてこなかった。これは被災地で「一人ひとりの苦しみは忘れてもいい」というものとは正反対で、被災地においては忘れてはいけないことがこれから継承されていくのだと思う。

広島において、忘れてはいけないことは何だったのか?被爆者一人ひとりの苦しみだったのか?もしかしたら「本当に忘れてはいけないことは、もう忘れられているのではないか」と思った。

そして改めて故郷の広島を旅人のような目線で見つめ直したいと思った。

 

 

 

旅人を装う

 

個別リサーチでは、旅人のように広島を捉え直すため、観光客を装ってみることにした。広島に着いた時は、まだ秋田を懐かしく感じていたので、この案でいけるような気がした。しかし、いざ原爆ドームの前に着いた途端、ドームを背景に写真を撮っている観光客の気持ちが分からなくなった。私にとって原爆ドームは「被爆の悲惨さ」の象徴であり、私自身の日常風景の一部でもあったからだ。

自分から原爆ドームにカメラを向ける気になれずに、観光客に写真を撮ってもらうことにした。

正直まったく落ち着かず、顔もこわばっていたが、観光客と話すうちに、彼らの日常が私につながってきて、もう少し広島について広い見方ができるような気がした。

また、観光客目線で広島の案内をするボランティアガイドの説明も聞いてみた。座っていたイスの横に柱の一部のようなものが転がっていた。「これは原爆のときの瓦礫の一部だが、そのままにされていて、イスだと思って座る人がいて困ったもんです」と、ガイドはゆるやかな口調で話していた。そのイスのような瓦礫を見た時、そこには不思議と日常を感じた。

原爆ドームは1945年の8月6日から止まっている。建物の周りは柵に囲われ人が入ることはできない。そもそも原爆ドームは「広島物産陳列館」として建てられたものだった。この建物は、日本の近代化の一環で全国に建てられ、産業の発展に根ざしたものだった。広島の文化振興の場としても大変にぎわっていたようで、川辺に建ち水面に映える美しさから、広島名所として絵葉書にされてもいた。

名称はやがて「産業奨励館」に変わり、原爆が落ちた。建物としての命はわずか30年だった。

 

 

 

アートプロジェクト提案:「原爆ドームを見ながら産業奨励館を描く」

 

もし原爆が落とされなかったらあり得ていた風景を想像してもらうための市民参加型プロジェクト

 

企画内容:

・原爆ドームが見える範囲のあちこちにイーゼルを立てかける。

・キャンバスには現在の原爆ドームの写真をプリントする。

・参加者には、その上に産業奨励館を描き足してもらう。

 

 

この企画は、断絶した過去を現在につなぎ直す、新しい継承の形になるのではないかと考えている。