鈴木 健斗
「私の生きた街を踊る」
<スライド発表>
身体感覚が研ぎ澄まされた。男鹿半島の山道、ゴジラ岩の岩礁、田んぼの畦(あぜ)道
空にたいする差し迫った感覚。
・秋田の身体感覚:舞踏?
・密な共同体がある:独自の歴史・伝統・文化
土地に紐づくリアルな「生」が踊りに結びついている。
個人の旅では、千葉の実家に帰省した。
その間、秋田から故郷をまったく新しい目で見ることができた。
<地図を見ながら街を紹介>
千葉県の地元は、一見きれいで住みやすそうな街、ニュータウンに感じた違和感があった。ほぼブロックで構成された住宅街で、景観がよく便利だが、生の実感がほとんどない。
中途半端な近代化が進められた地域で、近隣の交流もなく、空虚だと感じた。
秋田県では「やまどんど」など、街のつながりや人のぬくもりが感じられるものがあり豊かだと感じた。手作りの神輿や子どもたちの集まりなど、自分の住んでいた地域にはなかった。
自分の生まれ育った街は便利だが、歴史や文化、人と人とのつながり、秋田で感じてきたようなリアルな生の実感がない自分の街を「嫌だな」と思い、悲しい気持ちになった。
しかし、自分の街を「嫌だな」というネガティブな感情で終わらせたくはない。どうしようかと考えたとき、秋田の旅で2つの気づきがあった。
一つは、自分の街でも、秋田のように生きている土地の伝統や文化、特別な身体から踊りを作ることができるのではないかということ。
もう一つは、芸術は、自分の感情を昇華させるためにあるということ。ラエド・ヤシンさんの「亡くなった家族に対する着地できない感情を、作品に昇華することでしか生きられなかった」という話が印象的だった。
この二つを組み合わせて、自分が生きた「おゆみ野」という街の生を踊る作品が作れないかと考えた。
頭の中で考えているかっこよさや美しさ、気に入った音楽で振り付けを作るということではなく、自分にとって大切な「おゆみ野」という生まれ育った街で生きている自分の実感、身体感覚や歴史的背景みたいなものから踊りを着想することが、今考えているプロジェクトだ。
一人で踊るのか?誰かと踊るのか?
一人の体で表現できることは限られているし、複数で踊ることによって表現できることもあると思う。自分が踊るのか?誰か別の人が踊るのか?
他人に自分の生まれ育った土地まで来てもらい、踊ってもらうことで客観的にわかる何かがあるかもしれない。
どういった場で踊るのか?観客は誰なのか?考えるべきことはまだまだある。
手探りではあるけれど、いつか自分の街のことを作品にしてみたい。