小坂 友透
「ゴッドを登る、わたし、トツィナカン」
<スライド発表、映像、音源あり>
旅の前半で興味を持ったのは、いろんなところに、いろんな神様が、いろんなあり方でいるらしいということだった。
男鹿市には、海の神も山の神もいて、山そのものが神の「依り代」であるそうだ。また、土方巽の「病める舞姫」でいえば、神とはちょっと違うかもしれないが「あれもこれも私」という感覚。
神様という見えないものと私との関係や形は、自分の中で身体的に分かるという感じがあまりない。そういうものは、「地域に住む私たちのあり方や、見えない形でそこに住む人たちを規定しているのではないか」という疑問からスタートした。
神様と私の関わりをいろいろ考えた個別リサーチでは、「神様に登る」ことを魅力的に感じた。自分の身体で感じるものだから、何か捉えられるものがあるのではないかと思った。
秋田県内、大仙市協和にある唐松神社と、羽後町の七高山という、どちらも山岳信仰があった場所を訪れた。
二つの山では頂上まで登り、その音を採取した。また、山を登る時に負荷をかけてみようという実験も行った。片方の足を擦りながら、山に落ちていた木を杖にして 脚と木を交換するようなことを想像しながら登ってみた。
アウトプットするにあたり、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの書籍の一説を、歩く音と一緒に並べて出してみようと思った。
<ボルヘスの「神の書籍」の朗読と、自ら登った際の音と映像の投影>
山と神、あるいは環境みたいなものと神と自分との関係は、お互いどのように影響しあってかたち作られているのか。それをどう捉えるか、どのように他人と共有するかを考えた。
方法としては、どこを歩くか、実際の経験、書き留め方、伝え方、といったものがある。ガイドか他者を送り込むところで、自分しか経験していないことが浮かび上がる可能性があるかもしれない。
今回はやってみたいことをテキスト形式にまとめた。私としては、山を歩いた経験を「神様そのものを登る」と捉えるのではなく、神の破棄後や、書籍として山を歩く経験を結びつけようと考えている。共有の仕方についても、いろんなものを入れ替え、書き換えながら実験を進めていきたい。
【トツィナカン…地下牢に幽閉された神官「トツィナカン」は、捉えられた国の牢屋に入れられ、隣の柵越しには虎がいる環境でずっと暮らしていた。そして、ある時トラの模様に象徴みたいなもの見つけるという話。 】