2020.1.15
梶夏季/鎌田あかね/工藤結依
「旅する地域考 辺境を酌む冬編」の最終日、にかほ市の「象潟公会堂」を会場に、15名の受講生が8日間の旅を通して感じたことを、自由な形式で発表しました。受講生たちのコメントとともに、5回に分けてご紹介します。
(※プロフィールは2020年3月時点の情報です)
#4 梶 夏季 Natsuki Kaji
「鳥海ダムに対する住民の価値観」
スライドと朗読音声による問題提起のパフォーマンス。「私のものさしで問うのではない。私のものさしを問うのだ」というお寺の標語に始まり、鳥海ダム構想図に牛乳を注ぐ巨大な女性を合成したスライドを映し出した。百宅集落で話を聞いた時、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』のイメージが頭に浮かんだという。「集落に水を注いでいるのは百宅に住む人たちだって同じである。反対すにダムのように勢いよく音を立てて大量の水が注がれた。「実感はわかないが、人の手によって集落が沈む」。
発表の最後、水中の写真に重なるように、鉢植え植物のシルエットを投影した。
(photo: Yoma Funabashi)
<Statement>
私は、ダムに沈む集落・百宅をテーマに扱った。ヨハネス・フェルメールの絵画『牛乳を注ぐ女』の格好をして、台本朗読の音声を流し、スライドを見せた。そして、吹き抜けになっている象潟公会堂の2 階回廊から1 階客席に向けて水を注ぐパフォーマンスをした。 5日間のリサーチに対し、2日半の制作というタイトなスケジュールの中で、ひとつの作品形態にまとめて発表した。長期での発表や展示とするには強度が足りないが、即興性やラフさ、複雑な問題を扱ったことによるまとまっていない感情の表現は、短期間の制作だからこそ熱があったように思う。
(photo: Yoma Funabashi)
<Text>
こちらは、象潟公会堂近く、浄尊寺にあった教え。
「私のものさし で 問うのではない 私のものさし を 問うのだ」
百宅という集落に、鳥海ダムができる。 人の力によって、集落は、水に沈む。
私は山々に囲まれた、その場所にバスから降り立った時、澄んだ空気を体いっぱいに吸った。あたり一面に広がる雪景色と、点在する人々の家屋、 呼応する豊かな自然に魅せられ、この集落が水の底へと姿を変える実感は湧かなかった。 だが、反対する人はいない。その集落、百宅の人々でさえ誰一人として反対しないのだ。 違和感を覚えた。
私はぼんやりとヨハネス・フェルメールの「牛乳を注ぐ女」の絵が浮かび、百宅という集落に水を注いでいる、人の手で人の力で注いでいる様子が在り在りと浮かんだ。人の手によって何かを変えてしまう恐怖を覚えた。
だがその場所にダムが作られる理由はいくつかある。
まずひとつは子吉川流域ではよく洪水が起こり、その被害を軽減するということ。
2つ目は水脈を安定させることで塩水遡上による取水障害の防止をするということ。そして動植物の生息環境を向上させるということ。
3つ目は由利本荘市に対して水道水の供給を可能にするということである。
パンフレットにはこう書かれていてこの資料で地元の人を説得するかのような綺麗な言葉が羅列されている。政府にとっての目的のひとつとしては戦後復興の一環として治水、利水のインフラ整備をしていることは否定できない。日本にダムが多すぎることに疑問を持ちながらダムを作る人はいるだろうか。疑問に思っていたとしても、わざわざ反対の声を上げる人はいないだろう。
フェルメールの牛乳を注ぐ女は召使である。自分が飲む訳ではない牛乳を注いでいる。主の命令で動いているという点では、ダムを建設する人たちと重なる。そこに意思はあるのだろうか。だが、この人たちの生活は上司の命令に従うことで成り立っている。 そして集落に水を注いでいるのは百宅に住む人たちだって同じである。反対する人は誰一人としていない。自分の生まれ育った町が、水の底へと姿を隠し、もう戻っては来ないのだ。彼らは変わり果てた故郷を見て郷愁を感じるだろうか。だが、年老いたその集落の人たちは、自分の売れもしない土地を手放す事ができる上に助成金も出て有難いと言うのだ。彼らにとって守りたいものは何なのか。
自分が生まれ育ったまちに水を注いでいるという事実を実感していないのだろうか。 反対していないからこそ百宅に水を注いでいるのは、傍観している私たちだって同じだ。百宅を調査してこの事実を知り、違和感を抱いていたとしても、反対する人はいないのだ。
(2階から客席の1階に向けて水を注ぐ)
私自身、百宅を練り歩いてもこの集落が水に沈む実感は湧かなかった。 ここにいる私たちだけでも実感することはできないだろうか。 人の手によって集落が水に沈む。
(水の音が流れる。植木鉢をプロジェクターと投影面の間に置き、水没した植物を表現)
鳥海ダム設置の目的のひとつのうち、塩水遡上を防止することによって動植物の生息環境の保全がある。彼らにとって本当にいいのだろうか。人の手が加わる恐怖を感じないのだろうか。動物も植物も、喋らない。言葉を理解できない彼らにとってはただ理由も知らずに環境を劇的に変えられてしまうのだ。
鳥海ダムの設置は本当にいいのだろうか。悪いのだろうか。
(photo: Kaya Tei)
梶 夏季
北海道札幌市出身。秋田公立美術大学1 年。衣食住の「衣」と「住」に特に関心があり、刺繍や漫画、写真、絵画などで表現している。
#5 鎌田 あかね Akane Kamanda
「男の子だけの飾りがあるなら、
女の子のがあっても良いじゃない?」
男性が対象の「サエの神行事」を見て生じた感情の波を入口に、鎌田はお土産制作と参加型パフォーマンスを行った。あえて女性限定の「お飾り」を稲藁で作り、「松の葉は不老不死」など伝統的な意味を持つ縁起物は、自分自身とこれからを生きる女性に向けて、現代風にアレンジ。
(photo: Kaya Tei)
<Statement>
地域の男性中心の伝統文化に触れたとき、単純に「女性の伝統儀式、文化はないのかな?」と疑問に思ったり、寂しさを感じたりしたことをきっかけに、“女性性”について考える願いがこもった「お飾り」を作りました。
一束の藁には、伝統的な縁起物を現代風に解釈した色とりどりのモチーフが挟み込まれています。
●四角:昆布→昔は一家発展。でも今の時代は一家なんて大袈裟でなくても良いと思う。パートナーや理解ある友人に恵まれますように。
●フリンジ:松葉→昔は不老不死。永遠の命ってなんかピンとこない。だから健康な身体と美容。(人それぞれの美しさを)
●サカナ:カタクチイワシ→昔は五穀豊穣。別に田畑を持っていない人もいるし、食べ物に困らないということで金運アップ!
お飾りは心に“女性性”がある人なら誰でも、パーツを切り取って持ち帰る(お土産にする)ことができます。現代における女性性とは、また男性性とは。私も答えが出ないままの発表でしたが、日常の暮らしの中でもその事を考えるきっかけになった作品と思います。
(photo: Kaya Tei)
鎌田 あかね
ディレクター/グラフィックデザイナー。岩手県出身。山形大学農学部、創形美術学校デザイン科を卒業。2007 年秋田市に移住後は、企業でデザイン業務に携わる傍ら、独自に制作活動を行い、2014 年「Little A」を屋号にデザイン事務所を立ち上げる。2019 年12 月に独立5 周年の個展を秋田市で開催。
#6 工藤 結依 Yui Kudo
「living」
8層に折り重ねた白い布をホールの上に吊り下げ、両側から映像を投影するインスタレーション・パフォーマンスを行った。工藤が「普段の生活で見る秋田」と「この旅を通じて見た秋田」を対にし、鮭の孵化場、岩海苔、酒造り、獅子舞などの様子を撮影した映像を、立体的なスクリーンを通じて幻想的に映し出した。BGMは番楽の音色を取り込んだ。鑑賞者は会場内を自由に歩き、さまざまな角度から目を凝らして映像を眺めた。
(photo: Kaya Tei)
<Statement>
私は秋田に生まれ育った。日常と非日常に挟まれた旅をして、その二面性が交わる映像を制作した。
地域は火山から湧いて出たゴツゴツの原石。
都市は角が削られて均一になった砂のように思う。
生活を豊かにしようとすればするほど、独特の文化や自然は失われていく。これは、秋田に限ったことではなく、全国で起こっている。もしくは起こっていた。
産業化・効率化によって、今を生きる人間にとっては暮らしやすくはなる。だがその代償として消えゆくものは元に戻れない。暮らしの利便性と失わないことは両立できないのか、今回の旅で考えたが、はっきりとした答えは出なかった。この作品をこれからの旅へのセーブポイントとしたい。
(photo: Yoma Funabashi)
工藤 結依
秋田県由利本荘市出身。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻に在籍。手書きアニメーションや映像インスタレーションを制作。人間の制御しきれない身体の震えや生命活動を奥に感じられるような映像を作っていきたい。