パルプ工場と共に歩んだ新屋地域

 ニューヨーク株式の大暴落を契機に世界的な、大不況の到来で世界経済は、ますますブロック化が進み、国内各地では殖産興業策が実施され、昭和13年(雄物川放水路の成年)に、東北地方の未利用資源(主にブナ材)を原料とする国策のパルプ会社、即ち東北振興パルプ会社が当地に設置されました。秋田県では、最初の大規模工場で、これが後の秋田県近代工業の先駆者になったと云われています。
<工場の概要‥昭和27年5月>
 .資本金…5億2千万円
 .社 員…約1千人
 .生産量…パルプ(年産)6万トン、洋紙7百20トン
  その後、社会や経済の変動と共に会社も変わったが、このパルプ産業の地域経済に与えた経済効果には、測り知れないものがあると云われています。
  然し、工場周辺住民にはパルプ特有の悪臭と、廃液の漁業に与えた影響には大なるものがあると云われています。特に、溶解パルプ特有の黒液排水は、昭和48年には新屋浜から男鹿市船川港まで帯状に続く等公害問題は、緊急の課題となり、工場は膨大な公害対策費を投じその防止につとめました。
  価格の安い外国産人絹パルプの流入等から、昭和61年に新屋工場はこの部門から完全に撤退し、洋紙部門は居住地から遠く離れた地区に移転し、現在、公害防止策の粋を尽くした、近代的なモデル工場として操業を行っています。
 新屋地域のシンボルとして長い間、そびえ立った煙突も平成5年完全に撤去され、パルプ工場の撤退と平行して、周辺工場も生産工程の変更等公害防止策を講じた果、周辺部の土地利用は大きく変わり、現在は、緑豊かな大規模住宅地域として、また、公立美術工芸短期大学、新屋高校の設立等、秋田市西部の文教地域としての、発展が期待されています。


パルプ工場操業中新屋駅乗降状況
パルプ工場黒液廃水水路改修状況
配水路改修状況配水路の公園化



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